これは、ここに描かれている陶芸家板谷波山の作品そのものがそうであるように
   端正で気品とぬくもりのある映画である。波山が陶芸に志をたててから、
   ようやく世に認められはじめる頃−明治末期から大正時代−の、生活は貧しく
   しかし志は澄みきっている日々を描いているのだが、気負わず、気取らず
   ただ一途に土とそれを焼く炎とに向き合う陶芸家と、殆んどなんのためらいも
   見せることなく健気にけんめいにこの夫を支える妻の姿とが、いっさいの夾雑物ぬきに
   単純に映像で浮き彫りにされていて、まことに愛すべきさわやかな映画となっている。
   近代日本美術の指導者だった岡倉天心なども登場するからかもしれないがそこには一貫して
   近代日本文化の初心のようなものさえ感じられる。しかもそれが、大げさな言葉や美術界の
   うわべの空さわぎではなく、あくまでも仕事場での仕事に向う姿勢と一挙手一投足で
   表現されているところがいい。伝統的な職人芸の土台をしっかとふまえてそこから大きく
   近代へと飛躍しようとする。そこに、ごくごく地道でおちついた、そっとユーモアさえも
   漂う世界がある。    波山を演じる榎木孝明の、虚飾のない生まじめさ。妻を演じる南果歩の、外面はもちろん
   内面的にもよく弾んだ明るさ。隅々まで丁寧できちんとした画づくりをする五十嵐匠監督は
   貧乏をさえもこのうえなく清潔に表現して、本当に気持ちのいい映画に仕上げている。

   
      一体いつの頃からだろう。芸術家が孤高の存在から世俗へと下降していったのは。
   漢字の「芸術」から「アート」へ変化して、おしゃれで軽快で、おまけにリッチな
   匂いさえ発するようになったのは。    陶芸家になる。彼がそう決めた時、芸術家という職業は、赤貧の同義語だった。
   画家も詩人も小説家も皆その覚悟で各々の芸術を目指したのである。    彼、板谷の場合はもっと不確かだったのではないだろうか。陶芸の家に生まれたのでも
   なければ、早くから陶芸家の元に弟子入りしていたのでもない。自分の窯さえ板谷は
   まだ持っていなかった。安定した教師の職を辞して、陶芸家になることは、いにしえの
   西行が貴族たちにもてはやされる宮廷歌人(院を守る北面の武士でもあった)を捨てて
   出家して旅に出るのと、同じような変身であったと思う。ただ、板谷は西行と違って妻子を
   ともなって新たな人生をスタートさせたのである。    波山と号して陶芸家の道をゆく彼。しばらくは妻や子供とも離れて暮らすつもりだった
   波山のところに歌を口ずさみながら妻のまるが子供たちと一緒にやってくる。
   この妻が波山に劣らず魅力的だ。榎木孝明扮する波山は、面だちから立ち居振る舞い
   全てが美しく彼そのものが芸術である。一方、南果歩は古今東西の芸術家の妻たちを
   ランクづけしたらその一番上に位置すること間違いないまるを創出した。俗人がどんなに
   結構な焼き物でも、そこに食べ物が盛られていなかったら何にもならないと言う。
   勿論これは比喩である。サマセット・モームの小説になぞらえれば「月と六ペンス」のことだ。
   芸術か、それとも生活か。この時、まるは、芸術を選ぶ。波山が焼いた茶碗がいい
   と彼女は言うのだ。ここに五十嵐匠監督の全ての思いが結晶している。
   芸術家に芸術至上主義を語らせるのはたやすい。だが、あえて五十嵐監督は
   芸術家の妻にその光栄ある役割をになわせたのだ。波山の芸術の核は何?陶芸とは?    芸術論もまた、この映画の魅力的な要素である。波山の芸術には思想がないか。
   伝統とは真に激しい革新精神から生まれるのか?私の素人目には陶芸は、火だ!
   ということを印象付けられた場面があり、とても面白かった。陶芸のあらゆるプロセスを
   丁寧に記録する文化映画とは違う劇映画ならではのエネルギーの噴出をそこに見たからだ。
   素晴らしい映画である。